真宗教団連合講演会
(真宗10派のつどい)
聴聞記



日時 9月12日(日)1時半より
会場 東本願寺派福井別院(文化会館の前)
講師 池田勇諦先生
    講題 「わたしにとって聞法とは何か」



10派について
10派あるのが、良くも悪くも真宗の現実です。これはごまかせません。
この会に参加すると、人間は平等より差別が好きだという言葉を思い出します。
10派それぞれに歴史があるから、
○○家が、○○家の歴史を大事にするのと似ているかも知れません。
しかしどの派も、念仏の朋友なのです。
正信偈には「如衆水入海一味」(無数の川の水も海に入れば一つ味)とあります。
古いとか古くないとか、そんなことにかまけていないで、
おのおのが、そもそも大事なことは何だったのかを、
機会あるごとに思い出すことが大切ではないだろうかと、そんなことを感じました。


主題・聞法とは何か
さて、池田師のお話ですが、すっと底を流れていたのは子供の事件への悲しみでした。
私のお聞きしたことを、少しばかりお伝えいたします。

「いつの世も 大人が鏡 子のモラル」という川柳のとおり、
無差別の殺人、地位ある人による贈収賄、有名会社による偽装など、
子供たちに対して見本を見せているのは、すべて大人だと。子の毛穴から入っていると。
さらには「何事も まさかじゃなくて またかの世」という川柳の通り。
これは、笑い事じゃなくて、本当に恐ろしいことだと。
今の時代は、無宗教の時代であり、自分の足で立つ時代であるけれども
科学の知識と自分の理性を正しいと信じて、頼りにする一方、
世の中が信じられない、頼りになる先達がいない、人と人との間が信じられない、
そういう時代に生きる私が仏法を聞くとは?聞法するとはどういうことか?


仏法は深遠な理想か
仏法を聞くすべての人が通るであろう、誤った道の例
 1、仏法を長いこと聞くと、道徳的な人間になるはずだ
 2、感謝の日暮しをしなくてはいけないはずだが、まだできない、なかなかできない
どちらも自分を頼りにして、理想を追い求める姿。
自分の頭で、仏法を作り上げている。
聞いたことを理想化するのは、仏法をまったく聞いていないのと同じ。
はねつけている。
仏法は、追い求める理想ではない。 では、仏法とは何か、仏法を聞くとはどういうことか。

仏法とは
「懺悔」「すでに功徳のど真ん中」「聞いて導かれていく歩み」

確かに、仏法は容易にはわからない。
しかし、仏法とは、神様のような絶対者の奴隷になるのではない。
自分で理想化して作り上げるものでもない。
まず、法にふれると、自分をごまかせない。
悪いのは外だとばっかり思っていたが、自分に目がいく。
仏法を聞くとは、懺悔に立つことである。

同時に、理想だと思い込んでいたことが、実は、すでに、今の事実であった。
もともと私は、仏の世界に生かされていた。運ばれていた。
本来私は、功徳のど真ん中、大恩徳の中に運ばれて生きていた。
私が私であることを果たしていくだけであった。
自分の分を尽くさせていただくだけ。それが本来の自分の姿であり、生き方であった。
誰々のために、何々のためにといって行動するのでない。
ありがとうという言葉をもらえなくても関係ない。
自らの分(自分)を尽くしていくだけ。
聞法とは、このことを教えられること。感じること。
聞法して、何かをつかむのではない。本来の自分を教えてもらうこと。
本当に大切なもの、大切なこと、大切な人に気づかされること。
大切なものほど、お金では買えないものだと見えてくる感性。
今までの不安も、不満も、そうしてみれば、みんな仏さまからの呼びかけであった。
自分は今どこにいるのか、それに目覚めてほしいという呼びかけであった。
わたしたちは、聞法して煩悩をなくしていくのではなく、
聞法して、法に導かれていくというあゆみがすべて。

子供たち、孫たちには、普段の日常会話や、普段の態度いきざまを通して、
にじみでるという仕方で伝わっていく。
仏法の先生になって教えるのでは決してない。

   (蛇足  質疑応答「目を怒らせて死んだ人は大往生か?」も味わい深いものでした)
   (文章ではこの程度です。ナマの法話を聴聞していきましょう)
   (文責・一哉)



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