私はこのように聞きました。(一哉)
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日中
今日の主題・・光
光とは 仏の知恵のはたらきのこと(正信偈の南無不可思議光、仏壇のろうそくに象徴)
何を照らすか→ この私のの根性の闇 厳しい光
→自分を一番大事にしていることが照らされる
例話 亡くなったおばあさんの枕元で、ずいぶんやせましたねと言ったら、
隣の若奥さんが自分のことと勘違いして、5キロ痩せましてんと嬉しそうに言った。
→自分では闇を破れない
我が破れないと苦しい世界 つっぱり続けなくてはならない そのままの姿になれない
例話 ひきこもりの高校生・・その主な原因はこころを閉じて我を張っていること
周囲との摩擦を避けてきたため、つっぱっているんだけど弱い。
こだわりすぎて疲れている。
下宿代を大家さんに手渡すことをイコール
独力で支払っていることだと勘違いするなど、世界が閉じている
本堂の伝道掲示 「自らの愚かさを知りし喜びを南無阿弥陀仏と称えつるかな」
金子大栄師 「念仏は自我崩壊の響きであり 自己誕生の産声である」
比較病 落ち着くことがない
本堂の伝道掲示 「仏法はあなたがあなたになり、わたしがわたしになる道」
例話 年少の時、喜んでリンゴを食べていたが、兄の大きなリンゴを見たとたん泣き出した
味が変わったわけではないのに、もうおいしくない。
「隣に倉が建てばこちらは腹が立つ」
これも、こちらの家の状況は何も変わっていない。
→わたしがわたしになる=身と心が一つになる
腹が決まる 一歩始まる 逃げない
我の強さは治らないが、ふらふらしても再び落ち着くべき所に戻ること
→正定聚の位=往生が定まった仲間に入れてもらうこと
親鸞聖人は生きているうちに仲間にいれてもらうとおっしゃる
どんな死に方をしても。
「生きるものは生かしめたもう、死ぬるものは死なしめたもう
我に手のなし 南無阿弥陀仏」 (藤原師)
ひと息ひと息を喜ぶ ありがたい 命が輝く
「帰命」とは
帰命は頭が下がること、礼拝は頭を下げること。(強制しても帰命は起こらない)
礼拝の例話 選挙のお願い、息子の就職のお願い
帰命の例話・・姥捨て山の話(登る途中で背中の老母が何度も枝を折っていたのは、
山奥から息子が無事帰られるようにと思ってのことと知り、
心打たれて再び背負って帰ったという話)
「奥山に枝折り枝折るはたがためぞ 親を見捨てて帰る子のため」
初めて親の願いが届いた たまたま何かの節に分かる
それからずっと母親を大事にするかというとそうではないが、
そのことが一回あると再び帰る世界がある、気がつく世界がある。