三重県 池田勇諦師 講題「仏法の聞きかた」
福井市内の大谷派の別院を会場に、毎夏、5日間にわたって暁天講座が
開かれます。
とても考えさせられるお説教に出会うと、何度か繰り返し聞いています。
自己流で取ったメモなので、あまりお見せするものではありませんが、
聴聞記をご覧になる方もいらっしゃるようなので、追加してみます。
●「仏法がわかる」ということは、「仏法の聞き方がわかる」こと以外にない
→私たちは結局自分の常識のモノサシで聞き、解釈しているに
過ぎないのではないか
→正信偈の話を聴いても、正信偈の話という世間話を聞いたのと
同じではないか
●「いかに聞くのか」という聞き方の問題
★仏の感覚と発想で聞くこと。感覚と発想がひっくり返されること。
→自分のモノサシの延長上で発想の転換ということを理解しても、
転換にはならない。
→わかりやすい話をしてほしいと言われるが、
転換があるかないかが大事
→政治、経済、夫婦げんかの話でも、仏の感覚と発想ならば、
仏法を聴聞したことになる。
★「非合理なるがゆえに信ずる」
合理(理性絶対)でも不合理(理性無視)でもない
例話
釈尊のさとり=降魔成道(ごうまじょうどう・魔を降して道を成す)
釈尊は、苦行を棄てて、静かに菩提樹の下に座っておられた。
そこに悪魔がやってきて、何を物好きに座っているのか、
宮殿には家族も地位もあるだろうに、なぜ帰らないのか、などと
誘惑した。帝釈天はこれを見て、釈尊を守るために悪魔と闘い
退散させた。ところが、ある日大挙して押し寄せて来た悪魔の
軍勢をみた帝釈天は、腰を抜かして逃げ出した。そして、
こともあろうに、悪魔の軍勢の中へ逃げ込んだのである。
これを見た釈尊は、その瞬間にさとりを得た。
この例話が伝えていること
悪魔とは、釈尊の煩悩である。
帝釈天とは、釈尊の理性である。
帝釈天が悪魔の中に逃げ込んだというのは、
理性の正体は煩悩そのものであったということ。
釈尊はこれに気がついて、さとりを得られた。
人間を堕落から守り、行動を律する源であるはずの理性は、
実は悪魔そのものであったと、ひっくり返されたこと。
釈尊がさとった非合理とは?
仏法に出会う、仏法を聞くとは、ひっくり返されること。
それが、非合理の世界。
理性は実は煩悩でしかなかった・・・機の深信
進歩しなくても、すでに運ばれている身の事実・・・法の深信
もとにかえる。すでになっている。本来に帰ること。
理性以前の存在に気付かされること。
私が私であることを果たさせていただく行為。
もともと「お与えさま」の世界に運ばれている。
なんや、もともと私はここにおったんやないか。
例・・法然上人の弟子の質問
「今度の往生はいかに?」
法然上人の答え
「われもと極楽にありし身なれば必ず帰りゆくべし」
→進歩、向上、理想、高嶺の花ではない。
そうなればいいけどなあ・・ではない。
なかなかそんな風には思えません・・ではない。
例・・真宗門徒のあくび(曽我量深)
法話の前のあくび・・夢へお入りになる合図
法話の後のあくび・・夢からお戻りになる合図
仏法がわかるということは、仏法の正しい聞き方がわかること。ひっくり返ること。