聞いて、聞いて、そして聞く



僕の聞き方に対するご意見、ぜひメールでお聞かせ下さい。
お願いいたします。


その2



真宗教団連合というのは、真宗10派の集まりです。
先日、その研修会(講義と座談会)に初めてご縁をいただきました。
今回のテーマは「真宗と差別問題」。
そこで聞き、考えたことを記してみます。

一番よく思い出したのは、正信偈の「五濁悪時の群生海」という一句。
以前この句によって、「まじめになればなるほど濁っていくこともあるぞ」
と言い当てられたことがあり、その声が何度も思い出されました。
自分ではいたって真面目に取り組んでいるはずなのに、
逆に、ますます周りに地獄を作り出していくだけじゃないかということです。
例えば座談会では、差別ゼロを目指そう、衣に恥ずかしくない僧になろう、
啓発が大事だなどの意見が多く、そのために教えを学ぼうといいます。
それはもっともです。差別がいいわけはありません。
でも、それじゃあますます自分を立てていってしまうんじゃないの?
自分を立てていったら、ますます世の中を濁すだけだぞという声を思い出すのです。
これはひょっとすると、差別を糾弾する時にもいえるかもしれません。
平等を願って啓発するために教えを聞くのではなくて、
平等というのは、僕の願いじゃなくて諸仏の願いだったと聞こえてくるのです。
諸仏というのは、空想の偶像ではなく、たくさんの人です。
仏法を大事にされている先生です。友人です。故人です。
そうすると僕の仕事は、
仏の願いこそが大事だということを忘れず、
仏のはたらきを敬うことじゃないかと思うのです。
そうすると、差別する者もされる者も、仏になっていく身だとご覧になるのです。
仏の眼では、どちらも悲しいことだとご覧になるのです。
その眼から、そんな悲しいことをしてよいのかという声を聞くのです。

学校では、「自分を立てよ」と習ってきたのですけどね・・


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