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その3 |
先日、他のお寺の報恩講に寄せてもらいました。 その時の布教使さんは、歎異抄第5条を土台に話をされました。 歎異抄第5条は、 「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」 という言葉で始まります。 私は今までこの言葉が第5条のハイライトだと思っていました。 第5条の要旨は、追善供養の念仏はダメ!ということだと、マニュアル風に聞いていました。 ところが、お説教の合間に上映された親鸞聖人のビデオを見るうち、 源平の争乱などで次々と人が死んでいく時代様相に引きつけられました。 肉親の戦死や餓死に胸をつまらせていた人がたくさんいたのではないかと。 そうすると、不思議と第5条の違う言葉が胸に響いてきました。 「六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、・・・」 今まで、この言葉を読み飛ばしていました。 が、この娑婆の苦しみを引き受ける、強い腹の座りを感じるのです。 いずれの業苦というのは、自分の投獄、流罪、不治の病、横死すらも、 肉親が戦死したり餓死したりする理不尽さもということでしょう。 これはわが力ではない・・ そうすると、その前の言葉や後の言葉もひっかかるなあ・・ きっと、前後の言葉が大事なんじゃないかなあ・・ |