早いものでもう2月も今日で終わりです。 2月を「逃げる」と表現された昔の人のセンスには感心します。 昨日も法話が2席ありました。 一哉師のお説教は「人を理解するには知識より好意を持つことが先である」 という2月のカレンダーの言葉から。 このままでは意味が分からずずいぶんと悩まれたそうですが、 好意という言葉に着目して、 「ひとしく」好意を持つことが先である「でも、できんなぁ」 と続ければどうだろうというお話でした。 それがいいことだと十分わかっていても出来ない、 私たちなんて、そんな程度の存在なのでしょう。 そんな程度と思いながら、同時にそれほど悪くないと思っている自分がいる。 お説教を聞きながら、いろんなことを考えていると だんだん頭がごちゃごちゃになって来ました。 人は理解するものなのかという最初のところでひっかかりますから。 正信偈の「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常照護」 という部分が引かれました。 私たち一人一人は皆それぞれ凡・聖・逆・謗のどれかに属しているのでしょうが、 そんな私たちがお浄土の海の中に入れば皆同じ味になり、照らされ守られる。 スケールの大きな視野で見つめれば、 「ひとしく」好意を持つことに近づくことが出来るのかもしれないと思いました。 住職のお説教は「後生の一大事」ということについて。 大病を患ったり、愛する家族を失ったり、 生きている限り必ず行き詰るときがあるのでしょうが、 その時になってみないと、本当に我が事として感じることが難しい、 実際に行き詰っておられる方に会う機会が多い住職は、 そんなことをいつも思われるそうです。 そういう事を普段あまり意識しないで過ごしてしまっている私にとっては 随分と胸が詰まるような話でした。 いつ行き詰るかなんてことは、本当に誰にも分からないことです。 この日のために一ヶ月かけて準備をされるのお説教は 毎回とても重みがあります。 聞いてもすぐ忘れてしまう私ですが、 月に一度のこのご縁はいつも、自分がここにいることの喜びを感じさせてくれます。 自分のなさけなさのようなものを見せつけられても、不思議と後味が悪くはありません。 自分を知ろうとする行為は、それ自体とても前向きなものだと私は思っています。 皆さんにもお参りされるご縁がたくさんあるといいなぁと思います。 |