お講さまの法話原稿(1月)

カレンダーの言葉(お同行にお配りしている直枉(じきおう)カレンダーより)
「何のために生まれてきたの その答えを見つけるためよ」

法話の讃題(さんだい・・法話の拠り所となるお聖教の言葉) 
「往還の回向は他力による 正定の因はただ信心なり
   惑染の凡夫信心発すれば 生死即涅槃なりと証知せしむ」
(正信念仏偈) 


 私はお寺に住まいしている僧侶です。頭髪を剃り上げてなくても、衣を着けていれば相手に僧侶だと分かってもらえるのですが、先日、衣を着ないで初対面の人に自己紹介をする機会がありました。すると、何人もの方から、「へ〜、お坊さんですか。どのくらい修行をしたんですか?」と尋ねられました。その口調からは、僧侶だと聞いたけど全然そんなふうに見えないじゃないかという気持ちが伝わってくるようでした。その方々がどのような外見のお坊さんを思い描いていたのかは分かりませんが、修行をしない者は坊さんではないと思っておられたのは間違いないようです。私は、「修行は全然していませんが、念仏の教えを大事にしています。」と答えたものの、その方々の冷たい視線は相変わらずで、答えたこちらも、何だか念仏って頼りないなあという気持ちが湧いてきてしまいました。


 私のような僧侶はもちろん、念仏の教えを聞いているお同行や仲間たちの間では、聞法の大事さが問題にされることはあっても、修行については話題にものぼりません。それは、念仏ひとつが本当の行であると聞いていて、それが当たり前のようになっているからです。ところが、先のような体験をして初めて、世間一般では当たり前ではないんだと実感しました。宗祖親鸞聖人は、大無量寿経が真実のお経であるといただかれ、その中でも「阿弥陀の名前を称える者を救う」と誓う第十八願を大事にされたことを、私たちは何度も聞いています。そして、私もそれを当たり前のように思っていました。ところが、大無量寿経に誓われているのは十八願だけではありません。全部で四十八の願が誓われていますが、十九番目には、「いろいろな功徳を修めた者を救う」と誓われてあります。つまり、修行した者を救うと書かれてあるのです。にもかかわらず、その中で第十八願が中心だとなぜ宗祖は言われたのか、改めて問いかけられました。「修行は全然していませんが、念仏の教えを大事にしています」と答えたものの、自分の答えが頼りなく思ったのは、自分が知らず知らずにあぐらをかいていた土台を崩されたからです。念仏ひとつが本当の行であると聞いて、仏教が何か分かったような気になって、自分はもう迷っていないつもりでした。なぜ修行じゃなく念仏が大事なんだという問いは、そこを揺さぶってくれました。


 でも、どうして念仏が大事なのか改めて考えてみても、我が身が修行できない凡夫だからだとか、修行をして仏になった人を見たことがないからだとか、やっぱりそんな聞いた風なことを答えにしてしまいます。これが答えなんでしょうか。それとも、自分の土台を崩されたくないための自己弁護なのでしょうか。


 「何のために生まれてきたのか」というカレンダーの言葉は、同じように普段あまり問うことのない問題を投げかけてくれます。でも、「何のために生まれてきたのか」と言われても、人によって答えが違うだろうし、自分なりに納得して終わっているように思います。私の場合、自分の好きなことをするためだと思うこともありますし、家族が幸せに暮らすことだと思うこともあります。人生楽しまなければ損だという言葉も、よく耳にします。おいしいものを食べる、旅行に行く、いろんな楽しみ方があるでしょう。


 また、何かのきっかけで、何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか、白紙に戻されたように分からなくなることもあります。それでも、自分なりの答えに改めて納得したり、日常に追われてその問いを忘れたりしてしまいます。それはそれでよいのでしょうか。それとも、これも結局保身に過ぎないのでしょうか。


 今日、讃題に掲げましたのは、正信偈の一節です。「往還の回向は他力による 正定の因はただ信心なり 惑染の凡夫信心発すれば 生死即涅槃なりと証知せしむ」という一節ですが、「往還の回向は他力による」とは、「浄土へ往き生まれ還らせるのは如来のおはたらきである」と教えられます。このことは、私が私を超えた世界に触れる、不思議な出遇いを意味していると思います。「正定の因はただ信心なり」とは、「成仏が定まる因(たね)は信心ひとつである」と教えられます。信心とは、ただ法然上人のおおせをいただいて信じること以外にない、このように宗祖はおっしゃっておられます。「惑染の凡夫信心発すれば 生死即涅槃なりと証知せしむ」とは、「煩悩に惑う者に信心が開かれるならば、迷いがそのままさとりの内容となるのだ」と教えられます。


 この正信偈の言葉に接しますと、宗祖と法然上人との出遇いを思わずにはおれません。法然上人に出遇ったことは、念仏が開く広やかな世界に出遇ったことでした。念仏の世界に出遇ったことは、如来のおはたらきに出遇ったことでした。念仏も出遇いもすべて如来のおはたらきであるといただかれました。宗祖が如来のおはたらきに直接触れなさったのは、法然上人を通してでした。広やかな念仏の世界、如来のおはたらきに出会って初めて、自分が迷っていたことをはっきりお知らされるのです。言葉が過ぎるかも知れませんが、宗祖も上人に出遇うまでは、自分が「惑染の凡夫」であるとは知らなかったのだと思います。


 私たちは、「私は凡夫だから何一つ良いことはできん」などど言うこともあります。でもそれは、言い訳がましく予防線を張っているに過ぎないのでしょう。そんなつもりはなくとも、実は自己弁護しているに過ぎないのでしょう。私たちは自分の姿が分かった、自分の殻が破られたと思っても、実は自分の中で堂々巡りをしているだけなのでしょう。本当に自分を破ってくれるのは、自分には想像も付かなかったような広やかな世界との出遇いなのだと思います。法然上人は、すべての人を仏と仰ぐような広やかな念仏の伝統に触れられて、自らのことを愚痴であるとお知りになり、十悪を犯す身であるとお知りになりました。そして、どんな人をも大事にされて分けへだてなく教えを伝えました。法然上人を通して念仏の世界に触れられた宗祖もまた、自ら愚禿釋親鸞と名乗られ、文字も読めない田舎の人々を尊い仏弟子として尊敬されました。


 法然上人のような有名人に遇わなければ、広やかな念仏の歴史に触れられないのかというと、決してそうではないと思います。法然上人に遇うということは、念仏の教えをいただきながら暮らす人に遇うことですから、私にはそのように見えないだけで、実は身の周りにすでにおられるのではないでしょうか。その出遇いは、探し求めて見つかるわけでなく、自分のはからいを超えていつのまにか与えられるもののように思います。一人の人を、仏のおはたらきをいただく尊い方だと仰がれるならば、自ずと過去の人をも、未来の人をも、現に一緒に生きている人をも、尊い方だと仰がれてくるのです。


 なぜ修行じゃなく念仏なのか、何のために生まれてきたのか、そのような問いかけは私を土台から揺さぶってくれますが、私たちはすぐ自分の中で消化しようと考えます。しかし、南無阿弥陀仏という六字で伝えられてきた教えと歴史に触れるとき、初めて独りよがりの答えにあぐらをかくのが自分の正体であると気付かされます。自分では答えを出したつもりが、実は自己弁護に過ぎなかったと初めて気付かされるのです。それは、自分には都合良くとも、どこかで自分を誇り、他人を傷付け、世の中をますます濁らせる生き方だと教えられるのです。

2007/1/31 文責 一哉



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