お講さまの法話原稿(2月)

カレンダーの言葉(お同行にお配りしている直枉(じきおう)カレンダーより)
「老・病・死 やっぱり例外はなかった」

法話の讃題(さんだい・・法話の拠り所となるお聖教の言葉) 
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは 決するに疑情を以て所止とす
   速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは 必ず信心を以て能入とす」
(正信念仏偈) 


  今月、ご讃題にいただく正信偈の言葉は、宗祖が法然上人から教えていただいた、とても大事な言葉だと思います。「生死の家」に止まるのは疑いがあるからであり、「涅槃の城」に入るのは信心によってである、というのが法然上人の教えの言葉です。


 「生死の家」とは、毎日を生き、そして死んでいく私たちの今の暮らしを指す言葉です。「輪転」と言われたり、「還来」と言われたりするのは、その中をぐるぐる巡っている姿を教えて下さっています。その中から一歩も出ない様子を教えて下さっています。何も、その中から出る必要はないと私たちは思っています。私の一生はそんなものだと納得しているつもりです。かえって、普通の生き方を否定して、そこから出よと言う方が、何かうさん臭いようにさえ思います。出たらどんないいことがあるのか、はっきり示して欲しいと、逆に開き直ってみたりします。


 そのような私たちの毎日は、仏法の眼からは「まよいの家」であると教えられるのですが、仏法の側からだけでなく、厳しい現実を通して、本当に今の生き方でいいのかと問われることもあるでしょう。それを表しているのが、今月のカレンダーの言葉だろうと思います。順調に暮らしているうちは、生活を問い直すことはまずありませんが、「老・病・死」という現実に直面することによって暮らしに深い亀裂が入り、思いもよらぬ暗い闇に直面するということがあります。私には私の経験でしかお話できませんが、老も病も死も人ごとではなかったという怖さ、この自分に訪れたという恐怖だと思います。


 突然の出来事に暮らしを引き裂かれたとき、私はうろうろします。「まよいの姿が明らかになったね」と言われたとしても、それでは何も救われません。「大事な問題をいただいたね」と言われたとしても、実際はとてもそんな余裕はありません。私はただ、元の暮らしに帰りたいと思います。いくら迷いを輪転する姿だと言われても、元に戻りたいものです。それがかなわない望みだと分かった時には、どのように生きていけばいいのか、ますます困ってしまいます。


 ちょっと例としては大きすぎるように思いますが、JR福知山線の脱線事故、アメリカで起こった同時多発テロ事件、そこではたくさんの方が突然命を絶たれました。ある方からいただいたDVDを見たのですが、遺族の方々の悲しみは、数年経った今でも消えることがないそうです。そんな方々の間で大事にされている歌があるといいます。それは、年末の紅白歌合戦でも歌われた「千の風になって」という曲です。誰が作った詩なのか分からないそうですが、世界の各地で様々なメロディーを付けて歌われ、同時多発テロ事件の一周忌の際にも朗読されたそうです。日本語に訳された詩を書いてみます。


 「千の風になって」 新井満訳
私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって畑にふりそそぐ 冬はダイヤのようにきらめく雪になる
朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって・・(以下省略)


 この詩は、深い闇に切り裂かれた心の奥に響く力を持っていると思います。普段は思いもしなかった、心の奥の琴線を感じます。目に見えないけれど大切なもの、自分の思いを超えたようなものが、心の底で感じられるようです。実際、同時多発テロ事件の一周忌にこの詩を朗読した少女は、雨や風に、もういないはずの父親の存在を感じると語っていました。


 しかし、そのDVDでは、大切な人を亡くした悲しみは、どんなに時を経ても消えたりしないということも、全体を通して語られていました。父を亡くした日本の若い女性と、夫を亡くしたネイティブアメリカンの老婦人とが、抱き合って涙を流すことができるのは、状況の違いを超えて悲しみの底が通じ合うのだと思います。私は、その姿に、自分の想像をはるかに超えるような悲しみの深さを感じます。「千の風になって」で癒されたはずの魂が、簡単にそれを振り払ってしまうような、そんななまなましい悲しみの大きさを感じます。風や星に故人を感じて癒されたはずの心が、それを許さないような純粋な悲しみをもまた持ち続けているのです。


 また、誰でもが「千の風」になれるわけではありません。それは、現実の厳しさだと思います。私は、何十年という長患いをし、家族にわがままを言い放題にし、挙げ句の果てに家族を死に追いやってしまうかも知れません。そんな私を思って、誰が泣くでしょう。風や光や雪が、必ずしも癒しの対象となるわけでもありません。寺の過去帳には、天候の不順によって多数の死者が出たことが記されています(天保の大飢饉)。昭和2年には、屋根雪の重みで庫裏(寺族の住まい)がつぶれ、寝ていた6人が亡くなりました。「千の風」に癒されるというのは、いつでもどこでも通用するわけではありません。それらは、なまなましい現実の厳しさが教えてくれることです。


 仏法の教え、ここではご讃題の言葉も、それらはすべて生死輪転の家を経巡っている姿であると言われます。なぜ仏法はそのように教えるかというと、生死輪転の家を経巡らない姿を仏法は知っているからです。まよいの家を超え出る生き方を仏法は知っているからこそ、私たちの姿を迷っていると言い当てているのです。仏法が知っているというのはおかしな言い方ですので、言い直しますと、まよいの家を超え出た生き方をした方々が身をもって知らせて下さっているということです。ご讃題では、まよいの家を超え出る生き方を、寂静無為の楽(みやこ)に入るという言葉で教えられます。寂静無為の楽とは、よく知られた仏教用語では、涅槃ということです。涅槃は、仏の道を生きる際の目的を意味し、特に浄土教では仏の浄土を目指して生きることを勧めます。しかし、よく知られているが故に、涅槃に入るというなら死ぬことかと受け取られるかも知れません。それでは、迷いを超えることイコール死ぬこととなってしまい、宗祖が私たちに伝えて下さったお心と遠くかけ離れてしまいます。


どこで教わったか忘れましたが、宗祖は『教行信証』の中で、如来の家に入るという言葉を引用されています。同様に、諸仏の家に入るという言葉もお引きになります。仏の国土を「如来の家」とか「諸仏の家」というふうに表現されるのです。寂静無為の楽に入るという意味は、つまり迷いの家まよいの家を超え出る生き方とは、如来の家に入ることであり、諸仏の家に入ることであると、はっきりと示して下さっていると思います。それは、決して死を意味するものではありません。なぜなら、ご讃題には、寂静無為の楽に入るのは「信心」によってであると教えられるからです。信心をいただくのは、毎日の暮らしの中においてです。まよいの家を超え出る生き方とは、信心に依って生きることであると教えて下さっているのです。そして、それは実際に信心に依って生きられた方々が、身を持って証明して下さっているのです。決して、幻ではないのです。「千の風」は、ある特定の個人故人を偲ぶよすがにはなるのでしょう。しかし、仏法が教えて下さるのは、「諸仏の家」を大事にする生き方なのです。あの方も仏様であったか、あの方も仏様であったかと、無数の方々を敬い喜ぶ生き方なのです。そういう生き方に照らされると、自分の愛するものを偲ぶ姿が、迷いの家まよいの家の中の姿であったと、驚きと共に初めて知らされるのではないでしょうか。



2007/3/2 文責 一哉



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