カレンダーの言葉(お同行にお配りしている直枉(じきおう)カレンダーより)
「天空を駆けめぐる孫悟空 でも迷界は出られません」
法話の讃題(さんだい・・法話の拠り所となるお聖教の言葉)
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは 決するに疑情を以て所止とす
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは 必ず信心を以て能入とす
弘経(ぐきょう)の大士、宗師等 無辺の極濁悪を拯済(じょうさい)したまう
道俗時衆、共に同心に 唯、斯の高僧の説を信ずべし」(正信念仏偈)
先月に引き続きまして、正信偈の一番最後のところをご讃題にいただきたいと思います。先月は、「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情を以て所止とす。速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心を以て能入とす」という部分だけでしたが、今月は、その続きであり正信偈の結びの言葉でもある「弘経(ぐきょう)の大士、宗師等、無辺の極濁悪を拯済(じょうさい)したまう。道俗時衆、共に同心に、唯、斯の高僧の説を信ずべし。」というところも合わせて、一緒に聞いていきたいと思います。
弘経とは、お経を弘めて下さったという意味です。大士とは、正信偈に登場する七高僧のうち龍樹、天親のおふたりを指し、宗師とは、曇鸞、道綽、善導、源信、源空の5人を指すと言われます。そして「等」という字が加えられています。私は、この「等」が単なる字数合わせのための文字ではなく、親鸞聖人が大事にされた言葉ではないかと想像しています。それはそうとして字句の説明を続けますと、無辺とは、果てが無いという意味です。極濁悪とは、濁りと悪とが極まりないという意味です。拯済とは、どちらの漢字も救うという意味です。しかし、果たして救われなくてはならない無辺の極濁悪とは一体誰なのかという、漢字の意味が分かっただけでは解決しない問題があると思います。最後になりますが、道俗時衆とは、出家者も在家者もみな全ての人という意味であり、共に心を同じくして、ただこの高僧の説を信じましょうと結ばれます。
お経を弘めて下さった先輩方のことを大士宗師等と言われていましたが、最後は高僧と言われています。私はここにも「等」という字を入れて「高僧等」としてもおかしくないのではないかと思います。余談ですが、どうも私は、この「等」という字にしつこく執着しているようです。自分では気がつきませんでしたが、妻の美和子に指摘されました。大変しつこい性分ですみません。私はこの「等」という課題から、信心ということを考えさせられるのです。高僧の説を信じましょうと正信偈では言われるけど、一体宗祖は何を信じなさったのか、どんなことを「説」として受け取っておられたのか、そこをいただきたいのです。正信偈の最後の最後で、宗祖は一体何を私たちに勧めて下さっているのかを考えてみたいのです。高僧の説というと、何か難しいお説教のように思いませんか?私は、決してそうではなく、たったひとこと、南無阿弥陀仏を信じましょうと勧めて下さっているだけだと思うのです。でも、これでもなお難しそうに感じませんか。それは高僧方のお念仏を想像するからです。それに違いないと思いますが、何だか有名なお坊さんの念仏は高貴なような気がして、自分と遠いように感じてしまいます。私はここに、宗祖が「等」という字を加えられた意味があると思うのです。
宗祖のおこころを尋ねるために、カレンダーの言葉を手がかりに話を進めていきましょう。『西遊記』のことは詳しく知らないのですが、孫悟空という主人公は、高い能力を持ったやんちゃ坊で、地上で好き勝手に振る舞っただけでなく、天界にまで乗り込んで、高い役職についたり、不老長寿の桃の実を盗み食いしたりと、思うままに天地を駆けめぐっていたそうです。この主人公をうらやましいと思うのは、僕だけでしょうか。富も名誉も自由も手に入れて、おまけに不老長寿まで手に入れたというのですから、まさに私たち大人の願望を、この主人公が代弁してくれているように思います。
毎月やさしい言葉で語りかけるカレンダーですが、今月は難しい言葉が入っていたようです。それは「迷界」という言葉です。何気なく「めいかい」とキーボードをたたいたところ、「迷界」とは変換されませんでした。「迷界」は特殊な熟語なんですね。なるほど、死後の世界とされる「冥界」なら想像できそうですが、「迷界」って何だろうと考えてみると、はたと困ってしまいます。迷いの世界というのですから、やっぱり死後の世界をいうのでしょうか。それとも、悩み深い人々が集まる特別な場所があるのでしょうか。間違っても、科学技術が進み、民主主義が広まったこの社会が「迷界」であるなんて、思いもしませんね。もし、今の社会を「迷界」だなんて主張する人がいたら、むやみに危機感をあおる新手の宗教の勧誘に違いない、だまされないように気を付けようと身構えるだろうと思います。しかし、カレンダーには、「天空を駆けめぐる孫悟空 でも迷界は出られません」と書かれています。この言葉通りに受け取るならば、孫悟空は天空を駆けめぐっているようだけれども、実は「迷界」にいるのだということになります。
今の社会を「迷界」だと声高に主張するのでなく、大げさに言えばひと言の言葉もなしに、ただ、人となりで教えて下さる方があります。その人の生き方に触れるだけで、私は自分が「迷界」にいたことを知り、自分こそが「迷界」を作っていたことを知る、そんなことがあります。自分が迷い人だと知ること、自分が世の中を濁していた張本人と知ること、それはある意味で今までの人生の否定です。ある意味で今まで積み重ねてきたことが真っ白になることです。ある意味で暗い絶望です。しかし、それと同時に、その人の生き方に触れるだけで、「迷界」を出た生き方を知ります。それは、希望であり、自分の生き方の肯定であり、白黒の世界にカラーが蘇ることです。今の生き方が「迷界」と知ることと、「迷界」から出る生き方を知ることは、2つで1つです。頭の中で考えると、絶望と希望とが別々のように思われますが、たった1人の人から、同時に2つのことを、無言のままに教えてもらうのです。
わかりやすい例とはいえないかも知れませんが、最近のことなのでお話しようと思います。あるお葬式の帰り道に、参列されたお同行のおばあさんと、歩きながら話をしました。半年前にお会いした時は、先立たれた妹さんのことや、施設に入所することになったご主人のこと、認知症が始まった近所の姉さんのことなどで心労が重なって、ご自身までも入院なさるなど、とても苦しんでおられました。私は、早まって自ら命を絶たれやしないかと、内心不安でした。お葬式の帰り道には、そのおばあさんの方から声をかけていただきました。短い挨拶を交わした後、ぼそぼそとした声で「わて(わたし)、なむあみだぶつ様だけやと思てます。」というような意味のことをおっしゃいました。教えを聞くのに特別熱心な方ではなかったので意外な言葉でした。僕はぼんやりしてましたが、おばあさんの全身からにじみ出たような言葉に接しましたので、「僕も同じ気持ちです」とお返しすると、おばあさんの顔が少し崩れたようでした。
ただそれだけのことです。どのようなお気持ちで「なむあみだぶつ様だけ」とおっしゃったのか、詳しくお聞きしてはいません。底が抜けたように明るく笑いながらお話下さったわけでもありませんし、おばあさんの身の回りの問題が、すっきり解決したわけではないと思います。「なむあみだぶつ様だけ」イコール、もう娑婆のことはどうでもいいというわけでもありません。やっぱり、毎日のように認知症の姉の言葉に腹を立て、一日おきには夫の施設へ通わなくてはならないのだと思います。しかし、そのおばあさんは、それが紛れもない自分の姿だと、胸に落ちたのではないでしょうか。いつかは早世した妹への未練も消えて、いつかは認知症の姉ともうまくやっていけて、いつかは夫の介護からも解放される、そんな清々しい自分の姿を求めるのではなしに、正信偈で言う「無辺の極濁悪」とは、この私のことであったと、胸に落ちたのではないでしょうか。今の自分を引き受けられたというのでしょうか。
「なむあみだぶつ様だけ」と言うことは、宗祖親鸞聖人の姿をいただいたということです。宗祖親鸞聖人の姿とは何かというと、念仏の先輩方を敬う姿です。念仏ひとつを大事にされた法然上人や、正信偈で高僧と言われる先輩方は、「無辺の極濁悪」とは自分のことであったと、常に念仏によって教えられると同時に、そのような自分を引き受けていける明るい世界を生きていかれた方々でした。カレンダーの言葉を使えば、今の生き方が「迷界」と知ることと、「迷界」から出る生き方を知ることとの2つを、親鸞聖人は先輩方から同時に教えていただいたのです。それも、1回教えてもらったからもう十分なのではなく、生涯を通して先輩の姿を敬い、忘れては教えられ、忘れては教えられたのだと思います。「ただ、この高僧の説を信ずべし」というのが、正信偈の最後の言葉でした。高僧の説とは、難しい言葉をたくさん使ったお説教ではないと思います。気の利いた人生訓のような言葉でもないと思います。ただ、お念仏の教えに深く帰依する先輩の姿を指しているのだろうと思うのです。もし、そこに言葉があるとすれば、それは「なむあみだぶつ」という尊い呼びかけだけなのだと思います。
「なむあみだぶつ様」は「迷界」から出よう!という呼びかけです。その呼びかけにうなずいたにもかかわらず、いつの間にかまた「迷界」に沈んでいる自分の姿を教えられるのです。そうやって気付かされたことは、そのまま明るい世界をいただいたことでもあります。その明るさは「なむあみだぶつ様」という長い歴史と広いつながりの中に自分も混ぜていただいた明るさであり、自分の境遇を引き受けていけるという強い明るさです。そういうことだと思います。この「なむあみだぶつ様だけ」ということを、親鸞聖人は正信偈の最後の最後で、私たちに勧めて下さっているのではないでしょうか。
さて、終わりにあたってもう一つ引っかかっていることがあります。それは「等」という言葉です。私は、「なむあみだぶつ」という尊い呼びかけを大事にされた人は、高僧方だけではなかったし、今もたくさんいらっしゃると思います。私は、先ほどのおばあさんも、尊い呼びかけに応答された方として、深くお敬いします。おばあさんが覚った人であるとか、悪いことをしない人だという意味では決してありません。念仏の教えを胸に生きる人ということです。そして私は、「私も同じ気持ちです」という事を改めていただくことができました。ですから、おばあさんに言葉をお返ししたというのは、実は正確ではありません。なぜなら、僕の方こそ、おばあさんから「なむあみだぶつ様だけ」やということを改めて教えてもらったからです。こういう意味で、「ただ、この高僧の説を信ずべし」という正信偈の最後の言葉を、「ただ、この高僧等の説を信ずべし」といただくことも出来るのではないかと思います。
2007/4/17 文責 一哉
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