一哉氏はカレンダーの今月の言葉をご縁にして、 信心を「いただく」ということについての法話でした。 この「いただく」という感じがよく分からないという指摘から、 「誰から」いただくのかというところに着目して話が進められました。 親鸞聖人は「如来=諸仏」だとおっしゃられたそうで、 親鸞聖人にとっては法然上人や七高僧の方々のような存在、 私たちにとっては親鸞聖人や近所のお年寄りなど身近な方々の生きざまを通して、 その中に流れる信心を「いただく」ことができる。 諸仏が必ずしも立派な人というわけではなく、 その方が意識してなくても私たちが信心を「いただく」こともあるそうです。 ただ問題なのはどう「いただく」かということだそうで、 手前勝手な解釈になってしまってはいけないという注意もあり、 少し頭の中がごちゃごちゃし始めた頃に、2席目の住職のお説教が始まりました。 住職はご自身を愚禿釈親鸞と名乗られた親鸞聖人のお心についての法話でした。 愚禿とは「おろかもの」という意味で、 越後や関東に行かれた親鸞聖人が、 そこで苦悩する多くの人々を前にして、何もできない自分、 ただ寄り添って共に生きることしかできない自分にあらためて目覚められ、 そう名乗られたのだそうです。 住職は私たちの名前の前にも愚禿とつければいいとおっしゃっていました。 私の法名は釈清和だから愚禿釈清和、または愚禿護城美和子です。 自分の名前を名乗るたびに、 本当は愚か者なのに頭が下がらずにいる自分と向き合うことになりますね。 愚禿な私が人とのつながりの中で信心を「いただく」と、 そこに生きる喜びと力が生まれるのでしょうか。 先日の報恩講ではたくさんのお参りがあり、例年通りとても盛大でした。 あの報恩講も実はサンゲの場、 親鸞聖人のご命日をご縁として自分と向き合う場としての意味合いが強いそうです。 お世話になった方々、ありがとうございました。 |