永 代 経 初日

H20年7月10日  布教 福井 奥田順誓師

奥田師のお説教は、二日間を通して、次の言葉を柱に進められました。
 「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
ざっと今の言葉に直してみますと、
 「煩悩に眼をさえぎられて、すべてを摂め取るという仏の光明が見えないけれども、
   仏の大慈悲は飽きることなく、常に私を照らして下さっています」
このような意味です。
正信偈では、次のようにうたわれています。
「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」
「極重悪人はただ仏を称すべし 我また彼の摂取の中にあれども
 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲ものうきことなくて 常に我を照らしたまう」

極重悪人とは、犯罪者のことではなく、大事なことに気がつかずうかうかと過ごしている者のことだと
教えて下さいました。
しかし、このことがなかなか分かりません。
自分が迷っているとは考えたくないですから。
大事なこととは、自分の迷いの姿、そして受けていたけど見えていなかった恵み、この二つでしょうか。
一言で言うと、仏の力でみせてもらう世界。
自分の都合のいいものではありません。

極重悪人、それは自分のことだという教え、
その呼びかけとうなずきこそが、仏の力で見せてもらう、知らなかった自分の正体です。
そう呼びかけて下さる仏って、実はとなりのおばさん、おじさんだったりするわけです。
牛だったという先輩もおられました。
まあ、これはびっくりするような世界です。
となりのおばさんイコール仏様かと言うと、そうではないので、言い過ぎですが、
まあ、雰囲気はそういうことです。

永代という意味も、我が家の先祖というだけでは狭いんですね。



朝から3人の方が来てくださいました。連日、本当にありがとうございます。



参道を掃いて下さる方。有り難いことです。



提灯を立てて下さいます。



時間を間違えた〜と早くお見えになった方。飾る必要のない者同士、明るくにぎやかにお飾り作り。



手塩にかけたバラを下さることで永代経に参加される方。



お逮夜の始まり。迷い(六道)を超えるということ(釈尊が七歩あゆまれたことから)



ある脱獄囚のたとえ。井戸の中に逃げたはいいが、上には追っ手、下には毒蛇、つかまる綱は
ネズミにかじられて細くなる、そんなせっぱつまった状況にもかかわらず、上からたまに落ちてくる
甘い蜜を心待ちにしている、そんな脱獄囚の姿から、避けられない老病死から眼をそむけ、楽しみばかり
を追い求める、迷える自分の姿を教えてもらいます。



お初夜。提灯にろうそくを入れにいく途中。



納骨堂。過去 現在、未来という目に見えない流れ。



二つの眼は見えなくなったけど、心の眼が開いたと言われるアヌルダ尊者の話を例に、
私たちも何でも見えていると思っているけど、自分の姿も見えていないということを
教えて下さいます。