一哉氏のお説教は今月のカレンダーの言葉、 「あけまして南無阿弥陀仏 吉凶無用の日々をいただく」と、 正信偈の「善導独明仏正意〜」以降の文章をご縁に進められました。 「凶」とは「浄邦縁熟して」と親鸞聖人がおっしゃるように、 ご縁があれば、いつでも私たちの身に起こり得ること。 たとえば、いつか死んでしまうという事実も、 それこそが私たちの本当の姿なのに、日々、忘れようとしているから、 いざ現実のこととして突きつけられると「凶」だと思ってしまう。 今回、私はこの話を聞いているときに、ふと娘の顔が浮かびました。 高校受験が目前に控えているこの時期、 彼女は彼女なりに一生懸命勉強をしていますが、 受かるのも落ちるのもご縁なのだから、 不合格だってあなたの身に起こり得ると、私は彼女に言えるだろうか? そう言われた彼女はそれでも勉強し続けるだろうか? 慰めでも、開き直りでもなく、本当に頭が下がる思いから、 「凶」を「ご縁」として受け入れることが出来るかと不安になりました。 悶々とした気持ちのまま、2席目の住職のお説教を聞きました。 「無量寿」。今この一息一息の間に、無量の命をいただく。 あぁ、そうだった。 私たちに与えられている今、この一瞬が尊い命だと分かっていれば、 その今を、粗末に生きる事なんてできない。 たとえ、凶が我が身に起こり得るご縁だとしても、 今を一生懸命生きる、そのことに喜びを感じて生きることが大切なんだ。 自分自身を見つめる。 今、ここにいることを喜ぶ。 絶対に切り離すことはできない、二つの大切なことをすっかり忘れて、 おろおろしている自分に気づいてしまいました。 これだけお説教を聞く機会に恵まれていても、この有様です。 だからこそ聞き続けなければいけないのでしょう。 聞いている瞬間だけは、かろうじて自分が見えるのですから。 すぐに忘れても、たまにチクンと感じる機会があれば、 またスタート地点に戻ることができると思います。 |