カレンダーの言葉「みんな大事な生命 如来さまの願いがかかったいのち」と、 正信偈の「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」 の部分をご縁に進められました。 私たちが抱える問題の中で一番大きな「生死」について、 親鸞聖人は、その答えとして「ただ念仏」とおっしゃいました。 「称名」というと、み名をとなえると解釈されますが、 「称」という字には、もうひとつ「たたえる」という意味があるらしく、 その場合は、自分はどこまでも「下」にいるそうです。 カレンダーに出てくる私の「大事ないのち」、 私の体は何よりも大切で愛おしいはずなのですが、 ガン細胞などのように本来自分自身であるはずの存在が憎く思える場合もあり、 そんな憎たらしいヤツも「称」、たたえる心を通せば仏に見える。 私には今回のお説教はこんな風に聞こえたのですが、 何故かとても難しく感じました。 一哉氏のお説教はいつも芯の部分は同じなので、 いろんな角度から話が進められても、迷うことは少ないのですが、 今回は何故か頭がこんがらがってしまいました。 何が分からないのかさえ分かりません。 たぶん、念仏から頭が下がるという話に進んだところで 分からなくなったのだと思うのですが・・・ きっとそれは「ただ念仏」「頭が下がる」ということが 本当に身にしみていないのだと思います。 自分の頭が下がっていると感じるときでさえ、 その間、下がってない人と比べて損をしているように感じる時があり、 そんな時は本当は頭が下がっていないのだと指摘されると、 「下がる」ということが分からなくなる。 もしかしたら頭が下がっている時って、自分では気づかないのかもしれませんね。 だから、気づいているということは下がってないのでしょう。 「なんまんだぶ」といいながらふんぞり返っている状態なのでしょうか。 そもそも、未だに「なんまんだぶ」と声に出して言えない私は、 念仏している私を意識しているに違いないのです。 |