平成18年の声明会


11月11日の声明会



2006年度、みなさんありがとうございました。
このページをご覧下さったみなさんも
ありがとうございました。
また来年、心も新たに始めましょう。
さて、今月の終わりには、
声明会の仲間のひとりが、
村のお講さまに「お調子取り」としてデビューするかも知れません。
ひとえに諸仏のお働きによるもの。
ありがたいことです。



10月21日の声明会



夜風が冷たくなりました。
今回は、正信偈のおつとめに力を入れたので、
歎異抄を読む力がなくなりました。
その代わり、先日の報恩講でも歌った
「恩徳讃」の中の、「骨を砕きても」という部分が話題に。
これを文字通り受け取ると、恐ろしいという提言でした。
話が進みますと、
現代でも骨を折るとか、身を粉にするとかいう言葉を使うけれど、
文字通りではなく、例えの表現として受け取る方がいいのでは?
ということに落ち着きました。
経典の言葉や宗祖の言葉を受け取るときには、
文字通りなのか、例えの表現なのか、
立ち止まって考える必要があるなあと改めて教えられます。
加えて、骨を砕いてまでも感謝するべきものって何?
そういう大事な問いかけもいただきました。



9月9日の声明会



歎異抄は第11章を読みました。
ちょっと長かったですね〜。
仏教用語にひっかかりまくりでした。
次は第12章、長かったら半分にして、
また読みましょう。



8月12日の声明会



地域の情報紙の編集会があったり
お盆の時期ということもあったりで、
今回はおつとめの練習だけで切り上げました。
歎異抄はまた来月に。
ぜひおいで下さい。



7月8日の声明会







みなさんのご厚意で、お磨きをしていただきました。
白い布がみるみる真っ黒になり、
真鍮がみるみる輝きを取り戻しました。
急なお願いだったにもかかわらず、
こころよく引き受けて下さった皆さん、ありがとうございました。




6月10日の声明会



歎異抄は第10章を読み合わせしました。
親鸞聖人が御在世の頃、
志を同じくして、共に教えを聞いたはずなのに、
今では聖人の教えではないこと(いわれなき条々)を
言い合っているようです、という内容でした。
みんなで少しずつ意味をとりながら読み進み、
「いわれなき条々の子細」を次から述べましょうという所まで来た時
僕にはあらためて
「念仏には無義をもって義とす」という冒頭の言葉が響いてきました。
この言葉は、次の11章から18章までをずっと貫く
背骨のような言葉なのかも知れないと思われたのです。
こういう異議もダメ、こういう異議もダメ、と、
異議を一つ一つ歎いていくというより、
「念仏には無義をもって義とす」ということ一つを
おっしゃりたかったのかも知れないと思いました。
武周の老人が、僕に、
「仏法様を我が手で握ったらあかん」と教えてくれたのを思い出します。
歎異抄第2章とも重なって思われたので、
それはみんなで少し読みました。
いろいろなことが思われるのも、みんなで読んだおかげですね。




5月13日の声明会



今日はテープではなく、本山のCDに合わせて練習しました。
息が続かず、CDとリズムの合わない箇所もありました。
その後、おやつを食べながら久しぶりの雑談。
そのままの流れで、歎異抄第9条を拝読。
9条は文章が長いこともあり、
みなさん、あちこちに疑問の箇所が生まれたようでした。
「お念仏を躍り上がるほどに喜ぶ」という冒頭の部分から
引っかかって止まってしまった方も。
親鸞聖人はどういう気持ちで書かれたのかという話から、
煩悩を有効活用したらどうかという話やら、
この世を「苦悩の旧里」とは思わないという話、
果ては終末医療の現場の悩みまで話が尽きず、
もっと時間がほしいところでした。



4月8日の声明会



1週間前に本山へお参りしたばかりですが、
たくさんの方が集まって練習なさいました。
本当に有り難いことです。
今日は、本山のテープに合わせることを目的にして
練習しました。
そうすることによって、無意識の我流も見えてきます。
その後は、いただいた法名がよいご縁になってか、
正信偈に出てくる漢字について、
ひとしきり話が盛り上がりました。
そういえば、今まで何度も正信偈のお勤めを練習してきましたが、
漢字が話題になったのは初めてかもしれません。




3月18日の声明会



久しぶりに正信偈をおつとめしたので、
少々たどたどしかったようですが、
気持ちも新たに始まったことが嬉しい限りです。
その後は、帰敬式(おかみそり)のことや、
法名をいただくことについてしゃべり合いました。





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